ある日の午後、Slackに投稿された何気ない1つの質問が、エリートエンジニア集団としての誇りを一瞬で打ち砕きました。
「今、私たちのすべてのクラウド環境で実際に動いているリソースは何ですか?」という問いです。
IaC (Infrastructure as Code) のドキュメントに記載されている内容でもなく、経理に届く請求レポートの数字でもありません。
今この瞬間、AWS、GCP、Azure、そしてあらゆるアカウントとリージョンを横断して「現実に存在するもの」の全容を即答できる者は一人もいませんでした。
このエピソードは、現代の複雑化したクラウドネイティブ環境において、いかに多くの組織が自社の足元を見失っているかを象徴しています。
意図なきマルチクラウドの蓄積:戦略なき拡大の代償
「マルチクラウド戦略」という言葉は、カンファレンスや経営会議では、ベンダーロックインの回避や可用性の向上を目的とした戦略的な選択として語られがちです。
しかし、現実に起きているのは「戦略的な採用」ではなく「偶発的な蓄積」です。
多くの企業がマルチクラウド化するプロセスは、以下のような個別の最適化の結果です。
- メインのプロダクトは慣れ親しんだAWSで構築。
- 特定のSaaSベンダーがGCP固有の機能を要求したため、一部のプロジェクトをGCPで立ち上げ。
- エッジコンピューティングの低遅延を求めて、APIゲートウェイの一部にCloudflare Workersを採用。
- M&A (企業買収) によって、Azureを基盤とするアイデンティティ管理層やレガシーなデータパイプラインが突如としてポートフォリオに加わる。
これらの決定は、その時点、その文脈においてはすべて正解でした。
しかし、数年が経過し、チームが入れ替わり、組織が肥大化した結果、誰も全体像を把握できない「インフラの迷宮」が完成してしまうのです。
最新の調査では、企業の89%がマルチクラウド環境にあるとされていますが、その大半は「意図してそうなった」のではなく「気づけばそうなっていた」のが実情です。
「Infrastructure as Code」が抱える致命的な盲点
現代のエンジニアリングチームにとって、TerraformやPulumi、あるいはenv0のようなIaC管理プラットフォームは不可欠な存在です。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。
IaCは「パイプラインを通過したもの」しか管理できないという事実です。
以下の表は、組織が把握しているはずの「管理済みリソース」と、実際に存在する「未把握リソース」の対比です。
| カテゴリ | IaC管理下のソース | 把握できないブラインドスポット |
|---|---|---|
| デプロイ経路 | CI/CDパイプライン経由 | コンソールからの手動操作 (ClickOps) |
| 歴史的経緯 | 新規構築されたモダンな環境 | IaC導入以前から動いているレガシー資産 |
| 組織の変化 | 自社チームが構築したスタック | 買収した企業が持ち込んだ未知の環境 |
| 例外処理 | 標準化されたプロビジョニング | 緊急対応や検証目的で作成された「一時的」なリソース |
たとえエリートエンジニアが揃っていても、パイプラインの外側で起きたことを完全に追跡することは不可能です。
自動化が進めば進むほど、「コードになっていないリソース」の存在感は薄れ、セキュリティホールやコストの無駄となって静かに蓄積されていきます。
請求レポートと管理コンソールの限界
「何が動いているか」を知るために、多くのマネージャーは請求レポートを確認します。
しかし、コストデータはインベントリ管理の代用にはなりません。
請求データの解像度不足
請求レポートに記載されているのは「課金項目」であり、「実行されているリソースの実態」ではありません。
例えば、異常に高額なデータ転送料が発生していても、それがどのインスタンスの、どの設定ミスに起因するものなのかを特定するには、結局各クラウドのコンソールを巡回する「人海戦術」が必要になります。
コンソールの断片化
AWS、GCP、Azureのコンソールは、それぞれ設計思想も用語も異なります。
AWSの「EC2インスタンス」を数え、次にGCPの「Compute Engine」を数え、さらにAzureの「Virtual Machines」を合算して……という作業を、数百のアカウントに対して繰り返すのは非効率の極みです。
ましてや、マージしたばかりの組織とタグの命名規則が異なれば、Owner タグ一つでリソースの所有者を特定することすら困難を極めます。
データとしてのインフラ:SQLによる統合管理の衝撃
この「可視性の欠如」という難問を解決する鍵は、インフラの情報を「クエリ可能なデータ」へと変換することにあります。
CloudQueryのようなツールが提供するのは、AWS、GCP、Azure、さらにはKubernetesやCloudflareといった異なるプロバイダーの生の状態を抽出し、標準的なSQLテーブルへと同期する機能です。
例えば、マルチクラウド全体で動いている仮想マシンの総数を把握したい場合、各コンソールを渡り歩く必要はありません。
以下のような単純なSQLクエリを1回実行するだけで、数秒のうちに答えが出ます。
SELECT 'aws' AS provider, COUNT(*) AS count FROM aws_ec2_instances
UNION ALL
SELECT 'gcp', COUNT(*) FROM gcp_compute_instances
UNION ALL
SELECT 'azure', COUNT(*) FROM azure_compute_virtual_machines;
このように、インフラを「管理対象のオブジェクト」ではなく「データ」として扱うことで、「何が、どこで、誰によって動かされているか」を動的に、かつ客観的に把握できるようになります。
Slackでのあの質問に対する回答は、1週間の監査作業ではなく、3分間のクエリ実行で済むようになるのです。
将来のガバナンスに向けた「インベントリ・ファースト」の原則
もし、あなたが今日から新しいインフラ組織を再構築するのであれば、最優先すべきはIaCの導入でも、最新のオブザーバビリティツールの採用でもありません。
それは、「統一された資産インベントリ」を構築することです。
1. 可視化がなければ統治はできない
セキュリティ監査、コスト最適化、インシデントレスポンス、コンプライアンス対応。
これらすべての基盤となるのは「何が存在するか」という正確なリストです。
見えないものを守ることも、見えないもののコストを削ることもできません。
2. タグの強制と標準化
特に企業合併やチームの統合が予想される場合、早い段階で最小限の共通タグ(owner, environment, cost-center)を定義し、それを強制する仕組みを整えるべきです。
後からの修正には、初期設定の10倍以上のコストがかかります。
3. 「問い」を投げる前に「状態」を検知する
インベントリが常に最新の状態に保たれていれば、人間が「何が動いている?」と問いかける必要すらなくなります。
タグが設定されていないリソースや、パブリックに公開されているデータベースなど、「あるべき姿」から外れたものが自動的に通知される仕組みへと進化させることができます。
まとめ
マルチクラウド環境における「死角」は、技術力の欠如から生まれるのではなく、インフラの断片化という構造的な問題から生まれます。
エリートエンジニア集団であっても、情報の断絶という壁の前では無力です。
「今、何が動いているのか?」という問いに即答できない状態は、霧の中を高速道路で走行しているようなものです。
IaCによるデプロイの自動化に注力するのと同じくらい、あるいはそれ以上に、現実に存在するリソースを「データ」として可視化し、一元管理する仕組みの構築に投資してください。
インベントリは、ガバナンスの出発点であり、最終的な防衛線です。 組織が成長し、マルチクラウドの複雑性が増していく未来において、透明性こそが最大の武器となります。
