現代のソフトウェア開発において、C++はOS、ブラウザ、ゲームエンジン、金融システムなど、あらゆる基盤を支える不可欠なプログラミング言語です。

その生みの親であるビャーネ・ストラウストラップ (Bjarne Stroustrup)氏は、計算機科学の歴史において最も影響力のある人物の一人です。

彼は、効率性と抽象化を高度に両立させるという困難な課題に挑み、今日のITインフラを支える言語を作り上げました。

本記事では、ストラウストラップ氏の経歴やC++誕生の背景、そして言語がどのように進化を遂げてきたのかを詳しく解説します。

ビャーネ・ストラウストラップ:C++を創り出した天才の経歴

C++の設計者であるビャーネ・ストラウストラップ氏は、1950年にデンマークのオーフスで生まれました。

彼は、コンピュータサイエンスの理論と実践の両面において極めて優れた足跡を残してきた人物です。

教育背景と初期のキャリア

ストラウストラップ氏は、地元のオーフス大学で数学とコンピュータサイエンスを学び、1975年に修士号を取得しました。

その後、イギリスのケンブリッジ大学へ進学し、1979年にコンピュータサイエンスの博士号 (PhD) を取得しています。

ケンブリッジ大学時代の研究テーマは「分散コンピュータシステムにおけるソフトウェアの設計」であり、この時期の経験が後のC++開発に大きな影響を与えることになります。

彼は、ハードウェアに近い低レイヤの操作と、複雑なシステムを記述するための高レベルな抽象化を同時に必要としていました。

ベル研究所での黄金期

博士号取得後、彼は米国ニュージャージー州にあるマレーヒルのAT&Tベル研究所 (現:ノキア・ベル研究所) に入所しました。

当時のベル研究所は、C言語やUnixオペレーティングシステムが生まれた伝説的な場所であり、デニス・リッチー氏やケン・トンプソン氏といったコンピュータ界の巨星たちが在籍していました。

ストラウストラップ氏は、ここで大規模な分散システムのシミュレーションに取り組むことになりますが、当時の既存言語では彼の要求を満たすことができませんでした。

この不満が、新しい言語を開発する直接の動機となりました。

C++誕生の歴史:C with Classesから世界標準へ

C++は一朝一夕に完成したものではなく、実務上の課題を解決するための試行錯誤の連続から生まれました。

開発の動機とSimulaの影響

ストラウストラップ氏が直面した課題は、「プログラムの実行速度」と「開発の効率性」の両立でした。

当時、彼は「Simula」という言語を使用してシミュレーションを行っていました。

Simulaは世界初のオブジェクト指向言語であり、複雑なシステムをクラスやオブジェクトで整理する機能を持っていましたが、実行速度が極めて遅いという致命的な欠点がありました。

一方で、C言語は非常に高速でハードウェア制御に適していましたが、大規模なプログラムを記述するには抽象化機能が不足していました。

彼は「Simulaのような抽象化能力を持ちながら、C言語のような実行速度を持つ言語」が必要であると確信し、C言語を拡張する形で独自のプリプロセッサを書き始めました。

「C with Classes」の誕生

1979年、ストラウストラップ氏はC言語にクラス(データと関数をまとめたもの)の概念を追加した「C with Classes」を開発しました。

これがC++の原型です。

この段階ではまだ独立した言語ではなく、C言語のコードにクラスの定義を追加し、それを通常のCコンパイラが理解できる形に変換するツールとして機能していました。

しかし、その利便性はすぐに認められ、ベル研究所内部で広く使われるようになりました。

1983年:C++への改名

1983年、この言語はC++と正式に命名されました。

「++」はC言語のインクリメント演算子(値を1増やす)に由来しており、「C言語を一段階進めたもの」という意味が込められています。

1985年には、ストラウストラップ氏によるバイブル的な著作『The C++ Programming Language』 (邦題:プログラミング言語C++) の初版が出版され、同時に商用コンパイラがリリースされました。

これにより、C++は研究室のツールから、世界中のエンジニアが利用する汎用言語へと飛躍したのです。

ストラウストラップが掲げたC++の設計哲学

C++が数十年にわたり第一線で使われ続けている理由は、ストラウストラップ氏が貫いた独自の設計哲学にあります。

彼は、言語の美しさよりも「実用性」と「効率」を最優先しました。

ゼロオーバーヘッド原則

C++の最も重要な原則の一つが「ゼロオーバーヘッド原則 (Zero-overhead principle)」です。

これは以下の2つの概念から成り立っています。

  1. 使わないものに対して、コスト(実行速度やメモリ)を支払う必要がない。
  2. 提供される機能を使う場合、ユーザーが自分で同等の機能を実装するよりも効率的でなければならない。

この哲学により、C++は高度な抽象化機能(クラス、テンプレート、例外処理など)を持ちながらも、アセンブリ言語に近いパフォーマンスを維持することに成功しました。

マルチパラダイムの許容

ストラウストラップ氏は、特定のプログラミング手法(パラダイム)を強制することを嫌いました。

C++は以下の複数の手法を組み合わせて使用できるように設計されています。

  • 手続き型プログラミング:C言語譲りの直接的な処理記述。
  • オブジェクト指向プログラミング:クラスや継承によるモジュール化。
  • ジェネリックプログラミング:テンプレート機能による型に依存しない高度な再利用性。

下位互換性の重視

C言語との互換性を保つことも、ストラウストラップ氏がこだわった点です。

既存の膨大なC言語資産をそのまま利用できることは、C++が急速に普及する大きな要因となりました。

彼は「完璧な言語を作るよりも、実際に役立つ言語を作ること」を選んだのです。

C++の進化と標準化の歩み:Modern C++の到来

C++は誕生以来、国際標準化機構 (ISO) によって厳格に管理され、進化を続けています。

ストラウストラップ氏は標準化委員会の中心メンバーとして、現在もその方向性を導いています。

標準化のタイムライン

C++の歴史は、大きく「クラシックC++」と「モダンC++」に分けることができます。

バージョン通称特徴と主な変更点
C++98ISO/IEC 14882:1998最初の国際標準。STL (Standard Template Library) の導入。
C++03C++03マイナーアップデート。バグ修正が中心。
C++11Modern C++大規模な刷新。auto、ラムダ式、スマートポインタの導入。
C++14C++14C++11の改良と完成度の向上。
C++17C++17構造化束縛、std::optional、ファイルシステムAPIの追加。
C++20C++20コンセプト、コルーチン、モジュール、レンジライブラリの大幅進化。
C++23C++23標準ライブラリの強化、std::printの導入など。

Modern C++による変革

特にC++11は、言語のあり方を根本から変えるほどの影響を与えました。

ストラウストラップ氏は「C++11は、まるで新しい言語のようだ」と述べています。

従来のC++で課題となっていたメモリ管理の複雑さを、std::unique_ptrなどのスマートポインタが解決し、「生のポインタを極力使わない」安全な記述が可能になりました。

これにより、高いパフォーマンスを維持したまま、メモリリークなどの致命的なバグを劇的に減らすことができるようになったのです。

ビャーネ・ストラウストラップの現在と未来への提言

現在、ストラウストラップ氏は研究・教育の場に身を置きつつ、現役のエンジニアとして活動を続けています。

アカデミアと実業界での活躍

ベル研究所、テキサスA&M大学の特別教授を経て、現在はコロンビア大学の客員教授を務めています。

また、モルガン・スタンレーのテクノロジー部門においてマネージング・ディレクターを務めるなど、理論を実際の金融システムに応用する活動も行ってきました。

彼は長年にわたる貢献が認められ、コンピュータ界のノーベル賞とも言われるチャールズ・スターク・ドレイパー賞や、IEEEコンピュータパイオニア賞など、数多くの名誉ある賞を受賞しています。

安全性とシンプルさへの追求

近年のストラウストラップ氏は、C++のさらなる「安全性」と「使いやすさ」に焦点を当てています。

彼は「C++ Core Guidelines」というプロジェクトを主導し、型安全性やリソース管理に関するベストプラクティスを定義しています。

また、Rustなどの新しい言語が台頭する中で、C++もまた静的解析ツールや新しい言語機能を活用することで、「パフォーマンスを犠牲にすることなく、安全性を確保する」方向へと進化し続けています。

彼は、安易に言語を乗り換えるのではなく、正しい記述ルールを守ることで既存の強力なインフラを守り抜くことの重要性を説いています。

C++が現代社会に与えた影響

ストラウストラップ氏が開発したC++がなければ、現代のデジタル文明は今のような形にはなっていなかったでしょう。

採用されている主な分野

  • オペレーティングシステム:Windows、macOSの主要部分はC++で記述されています。
  • Webブラウザ:Google ChromeやFirefoxのレンダリングエンジンは、膨大なC++コードで構築されています。
  • ゲーム開発:Unreal Engineをはじめとする主要なゲームエンジンはC++が標準です。
  • 金融工学:高頻度取引 (HFT) システムでは、マイクロ秒単位の速度が求められるため、C++が独占的な地位を築いています。
  • 科学技術計算・AI:TensorFlowやPyTorchといったAIフレームワークのコア部分は、速度のためにC++で実装されています。

C++は、単なるプログラミング言語という枠を超え、現代社会のあらゆる「高速な処理」が必要な場所で沈黙の守護者として機能しています。

まとめ

C++を作った人、ビャーネ・ストラウストラップ氏は、一貫して「実用的であること」を追求し続けてきました。

彼がベル研究所で始めた小さな実験は、40年以上の歳月を経て、世界中のシステムを動かす巨大なエコシステムへと成長しました。

C++の歴史は、ハードウェアの性能を極限まで引き出しつつ、人間の知性をどのようにコードに抽象化するかという挑戦の歴史でもあります。

ストラウストラップ氏が提唱した「ゼロオーバーヘッド原則」や「マルチパラダイム」という考え方は、今なお色あせることなく、新しいバージョンのC++へと受け継がれています。

私たちは、日々スマートフォンを使い、インターネットを閲覧し、高度なアプリケーションを利用していますが、その背後には必ずと言っていいほど、ストラウストラップ氏の情熱と哲学が宿っています。

彼が生み出したC++は、これからも技術の限界を押し広げ、未来のイノベーションを支え続けていくことでしょう。